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 野村胡堂
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  Since1951.12.20
  株式会社 銭形

〒104-0061
東京都中央区銀座7-11-10
       銭形ビル
    03-3571-1005
      

「銭形」の由来

 作家・野村胡堂の代表作『銭形平次捕物控』が世に登場したのは昭和6年のこと。岡本綺堂の『半七捕物帳』に続く捕物シリーズとして期待され、「オール読物」誌上で第1作「金色の處女」が発表される。それ以降、『銭形平次』はシリーズ化され、胡堂は実に27年間で383篇もの作品を書き上げている。
 『銭形平次』がこれだけ長く人々に愛されたのには、後に岡本綺堂、横溝正史と並ぶ3大捕物作家として評価を得た文学的な質の高さがあった。だが、それ以上に大衆を熱狂させたのは、そこに善意の罪を許し、偽善の悪党を罰するという「庶民的正義」が描かれていたからにほかならない。
 「てえへんだ、親分」と江戸の町を走り回る八五郎や、投げ銭を武器に難事件を解決していく平次の法にとらわれない「正義」は、戦中、戦後を通して苦しい生活に耐えてきた大衆の心をつかんで離さなかったのである。
  
 「銭形」の創業者・齋藤益夫もまた、胡堂の愛読者の1人であった。終戦後の昭和21年、満州から帰国した益夫は、新潟県西蒲原郡分水町に帰郷後すぐに上京し、妻トシとともに銀座で一軒の屋台をはじめた。
早くから料理人を志していた益夫
にとって、東京進出は大きな夢だっ
た。
 当時の銀座は、大戦直後の混沌
とした状況の中でも、早くから歓楽
街としての活気を取り戻していた。
街には日本に駐留する米兵や多く
の日本人が集まり、益夫の店にも
次第に客がつくようになる。
  
 そして屋台も軌道に乗りはじめた
昭和26年、益夫たちに転機が訪れ
た。銀座の美化に取り組む東京都が
屋台の廃止を決定、当時の三十間
掘(現銀座7丁目)付近の土地を安
く屋台経営者に譲ったのだ。その
土地を買い取った益夫は、いよいよ
自分の店を開く決意をする。
 益夫には、店を開く上で1つの
理想があった。
 「大衆にいつまでも愛される店にしたい」
 その夢を実現させるために思いついたのが、『銭形平次』の存在だった。「銭形」を屋号にすれば、多くの人が喜んでくれるに違いない−。長く大衆に愛される平次は益夫の理想に合っていた。
 そこで益夫は、屋台時代によく足を運んでくれた将棋名人・原田泰夫に相談を持ちかけることになる。
 原田は益夫と同郷で、その人柄をよく理解しており、胡堂に引き合わせるべく手を尽くした。そして胡堂の報知新聞社時代の同僚、木村芳男14世名人に次第を伝え、面会の機会を作ったのである。  
 益夫が訪ねてきた当時のことを、胡堂は『随筆銭形平次』(旺文社文庫刊)の中でこう記している。

   銀座に「銭形」という料理屋が
  あって、主人が義理堅く、盆暮
  には必ず顔を見せる。
   初め将棋の名人木村義雄さ
  んが私のところへ連れてこられ
  て、先方の希望で「銭形」という
  名前を許した。いい男だから
  名前をやったのだが、繁盛して
  いる様子である。



 原田と木村の心遣いにより、胡堂
の自宅で面会の機会を得た益夫は、
自分が理想とする店について語った。
誰もが気持ちよく飲んで食べることの
できる店にしたいという益夫に、胡堂
は、「安くて、おいしくて、いつまでも皆
に愛される店でいてください」と話し、
「銭形」の屋号の使用を快諾した。

 そして昭和26年12月20日、銀座7丁目に「銭形」は開店する。2階建ての簡素な作りではあったが、十手や投げ銭、提灯を飾り付けた店内の雰囲気や、おでんや焼き鳥、とんかつなどの庶民的な味はまたたく間に人々をひきつけた。
 その「銭形」も、開店して半世紀が過ぎた。50年の歳月は長く、平次を生み出した胡堂も、益夫も他界した。だが、「銭形」はいまもなお多くの人々に支えられながら、気軽に、誰もが楽しめる店作りに励んでいる。    (文中敬称略)
                                                
  

庶民に愛され続けた
「銭形平次捕物控」

はじまりは
1軒の屋台から

胡堂との約束守り
気軽に楽しめる店づくりを

開店当時の銭形と創業者の益夫

昭和28年頃、来店した胡堂(前列中央)と
記念写真に納まる益夫(後方)

野村胡堂氏直筆の「銭形」のロゴ